少しでも続ける

秋から冬へ、春へと、少しの時間を見つけてはGSと一緒にいる時間を作った。10月は京都大学のデザインスクールが主催するグラフィックレコーディングのワークショップに参加するために、京都に一泊で往復した。京都駅南の市営の地下駐車場は24時間で1,400円という安価、大型のオートバイ専用スペースがあり、セキュリティも良いという評判で利用した。GSの傍らで着替えして、バイク用のスーツ一式はパニアケースに収まった。翌日午後に滋賀の成安造形大学に(11月に公開講座を予定していたので下見を兼ねて)お邪魔して、15時過ぎに滋賀を出て、19時には自宅に着いていた。往復700km弱だった。

12月を迎えて、GSはコクボモータースで2回目の車検だ。21日に預けて、引き取りは1月6日になった。前日に都内でワークショップに参加して一泊し、中央線で八王子に行くと小春日和だ。GSは空気圧が正常で、リーンが軽い。国道20号線をたどりながら標高を上げ、上野原、大月、と勝沼まで来て中央道に入った。中部横断自動車道のジャンクションを調べなかったのが災いして道を見失い、甲府昭和ICで降りて、また入りなおして東進することになった。ガソリンがなく、氷雨が降った。ナビを手放したことを後悔しながら52号にたどり着いた。

この日に懲りて、コミネの電熱グローブを購入した。大ぶりの充電式バッテリーを左右のグローブに内蔵して3段階でヒーティングするそれは、購入前に調べた前評判通りの効果を出して、指先の冷えが痛みになっていた状況は改善できた。グリップヒーターと組み合わせれば、高速道路での連続走行も苦にならない。ライダー生活30余年にして、小さいけれど画期的な進歩?。

週末ごとに2,3時間ずつ乗り続けた。菊川から御前崎まで、お茶畑を抜けるアップダウンは、3日間乗り続けたのが功を奏して、身体とGSの動きが随分と合ってきたように感じた。スポーツと同じで、毎日続けることが最大の成長なのだ。砂利道も走るようになり、車体重心の身体のバランスも少しづつわかってきた。舗装路では感じないタイヤのグリップの具合がわかるのが面白い。ただし、行き止まりで押してUターンする回数も増えた。

3月にヤフオクでZUMO 660を落札した。これでようやく、ナビ音声が聞こえるセットにできるはずだ。花粉症が終われば、東北か紀伊半島に旅をしたい。

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XZ400

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23歳のある夜に寮で目を覚ました瞬間に、XZに乗ろう、と決めた。マンガのような展開だが、その週末にはヤマハのショップに相談に行き、グレイの色も指定した。XZはGKの強い思い入れで生まれたとしか言いようがない造形で、側面から見ると45度のVツインのバンクを下の頂点にした斜めのラインが反復交錯する、未来建築のような冷たい合理性が魅力だった。一方、弁当箱と呼ばれたメーターナセルや文字盤のフォントの味気なさや、エイのように無表情なガソリンタンクの上面は、三次元としての彫刻美を獲得したとは言いがたい。それでも、テールランプ回りの面の取り方だけで、手元に置いて見ておきたいと思わせた。ヨーロピアンツアラーというカテゴリーは当時珍しく、HONDAのGL系以外は長続きしたモデルはないのではないか。XZも550ccが本来の姿であり、国内の免許制度に合わせた400ccモデルは穏やかな特性となった。

コーナー手前で200kgを超える車体を減速させると、細めの18インチの前後輪はパタリとバンクする。縦置きツインは横方向に倒すのは簡単だ。しかしそこから脱出加速を得ようとアクセルグリップを開くと、水冷エンジンはきちんと7,000回転位は回るものの、車体は置いていかれた。右手と気持ちの3mほど後から車体がやってくる。そのような乗り方をしなければ、つまり淡々と長い距離を走る分には、従順な性格だった。

意外に早く手放したのは、ダウンドラフトのキャブレターが何度ディーラーで修理しても適切な混合気をブレンドできず、時折ストールする癖が治らなかったからだった。信号から発信して右折、という瞬間にエンジンが止まる。当然、交差点の真ん中で転倒することになる、そんな経験が何度かあって、とうとうロングツーリングに出る機会がなかったXZには、今でも美しいと思う気持ちの奥に、ほんの少し悲しい記憶が残っている。

MB5とXJ400

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GSまでのモーターバイク。

1980年、日本の戦後経済成長がバブルへに向かいはじめた頃に、HONDAのMB5が初めての相棒となった。50ccの2ストロークエンジンは7馬力に達し、X型バックボーンフレームという大柄なスタイリングと合わせて、前衛的な商品だった。独り乗りのロングシートとセパレートハンドル、赤いボディカラーなど専用設計のディテールが他の50ccとは全く違った。

しかし、羽音のような摩擦音を伴うエンジンと、時速60kmを超えたあたりからのハンドルに表れる振動は、下宿先と実家との100km弱の移動にとってストレスなのも事実だった。水色のオイルがサイレンサーから漏れてくるのも苦手なことに気がついた。自分は、商品のコンセプト、氏素性が正当であることが最優先だが、さらに機械にとしての完全さも求める性格だった。

ほどなく、赤いヤマハのXJ400を購入することができた。発売間もない納車で、慣らし運転で太宰府のバイパス入口を加速していくと、話題の車を見て喜んで手を振るタンデムライダーの笑顔と初めてピースサインを交わした、その夕暮れの山際の風景や夏の気温を今でも覚えている。

ヤマハで初めての空冷並列四気筒は2列のオーバヘッドカムシャフトの構造から45馬力を出した。1405mmという長いホイールベースが堂々としたツアラー的なプロポーションを生みだし、赤い車体色がいつも僕を勇気づけた。大学生だから文字通り朝昼晩,雨が降らない限り僕はこのモーターバイクと一緒にいた。下宿の窓外に駐車している時も、無人駅舎で野宿している時も、僕はこのモーターバイクのことばかり考えていた。ツインホーンのメッキは豪華すぎると思いながらも、離れて眺めるとそこも愛敬に見えた。XJは僕にモーターバイクが風景や季節を教えてくれることに気づかせた、大きな役割を果たした。一人で夜の福井の国道8号線を走りながら野宿の駅を探していると、心細さから、大学でうまくいかない人間関係も懐かしく感じ、生きているだけで充分だ、と勝手に納得したことも、一人で何もかもと向き合わなければならない、モーターバイクが教えてくれたことの大切な真理だった。

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越前岳の展望台

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晴れ間が出た。午後から国道1号線を東へ走り、田子ノ浦で左折して富士吉原を通りぬけ、国道469号線をのぼった。長旅から帰って調子がとても良いように感じたのは、リアのダンパーのセッティングが自分好みになったことが大きいようだった。停車時には右手のインテグラルブレーキではなく、左でリアブレーキだけを使う方が2009年式の車体に合っていることも分かった。左脚で支え、発信する時に右脚に踏み替えると、安心感が増した。

今日はツインエンジンの音がよく聞こえた。片側580ccのピストンが水平左右に毎分3,000回の往復運動を繰りかえしている時の吸気、爆発、排気の繰り返しと、多くのギアが噛み合わさる機械音の複合だ。鼓動というほど人間らしい不規則な感触はないが、並列四気筒の連続音とはまったく違い、僕と対話しているような頼もしさはしっかり捉えられる。2,000回転代は機嫌のいい大型の肉食獣と一緒にいるようなゴロゴロとした振動が下半身を伝わってくるし、3,000を超えたあたりから、エンジンの回転と車体の挙動と自分の意思とがぴったり合わさった一体感が訪れる。

富士山の東山麓と愛鷹山の間を抜ける国道はいくつかの中速カーブを抜けるごとに針葉樹の林に囲まれて気温も5℃ほど下がった。十里木高原にある越前岳行きの登山道入口がお気に入りの場所だった。秋から次第にすすきに覆われる高原は、歩いて10分程の展望台から正面に富士山を臨むことができた。何度も通った道にオレンジのGSもやってきたことになった。

 

佐賀の街を走る

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佐賀大学に美術館ができたのを知って、佐賀市で古い友だちと会うことにした。

佐賀大和ICから市内へ向かうバイパスには30年前の街とはまったく違う光景が広がっていて本当に驚いた。AEON、シネコン、ガスト、マクドナルドと、日本のどこの郊外とも同じビジネスだった。私たちが求めるサービスは、水準とともに内容も均一化していくのだろうか?言い訳なしに嬉しいローカルのお店は珍しいように思う。

佐賀市は県庁所在地でも20数万人の人口で、他の都市の発展からはひっそりこぼれ落ちているようなところが特徴だったのに。

佐賀大学も多くの校舎が新改築され、見違えるようにすっきり清潔なキャンパスになった。特美という教育学部の中で異端だった学科も、治外法権の象徴のような中庭がなくなり、校舎は真っ白なガラス張りのアトリウムになっていた。真冬の夕方に、3階の吹きさらしの廊下から、生協からコーヒーを買って中庭に帰ってきたクラスメートを見下ろしながら他愛もない言葉を交わした記憶が、その時の空気の冷たさと一緒に蘇った。

学生生活を奔放に楽しんだ方ではなかったが、良く絵を描いて、飲みにいって、イベントに加わって、議論した覚えはある。

何より,僕の学生生活はバイクと一体だった。赤いヤマハは2週間に一度は洗車していたので、いつもワックスの皮膜が輝いていた。何度か授業時間に山奥のダム湖に昼寝に行った。アニメの最終回を録画するためだけに大分まで出かけた。福岡の本屋に行くために定期的に背振山を越えたし、長旅だと新潟で持っているお金が半分になって引き返してきた。大学で徹夜したらヘッドライトが盗まれていたこともあった。4年間で5万キロ、一日35キロを走っていた。

構内をGSで走ることははばかられたので、正門前で記念に写真を撮った。30年が経っても、僕はモーターバイクが友だちで、本当の友だちとも大切なことを話すことができた。

 

防府まで790km

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長い距離を走ることを切望しているのに反して、出発前日や走り出してしばらくは落ち着かないのはなぜだろう。9時に静岡を出て九州に向かって走りはじめた。浜松までは、いつもと違う積載バランスから前輪の接地が軽く感じたり、ヘッドセットやウェアのセッティングに不具合があったり、些細なことが気になっていた。パーキングで止まって調整して、名古屋を過ぎる頃から気持ちと身体の収まりがよくなってきた。

九州までの1,000kmの距離を思うと、目の前の路面を二本のタイヤでたぐり寄せては消化していく移動の様式が心細く、やっと50km、あと400km、と考えると、空間と時間と気力との関係がぴったり組み合わさって、さぼりようがないような圧力を感じる。しかし長良川を過ぎる位から、次第に景色を見渡す余裕が生まれてきた。高速道路のフェンス越しに川辺の水草や黒い瓦葺きの農家に視線が伸びて、土地の暮らしを想像して楽しくなってくる。見慣れない光景がもたらす好奇心が力を与えてくれたのか、よし、行けそう,と自分の身体の動きに自信が感じられる。

モーターバイクは頭よりも身体で感じ、判断し処理する情報が多い。最初に感じた軽い怯えのようなものは、肉体がこの旅を咀嚼し、態勢を整えるまでの違和感のようなものだろうか。普段は乗っていない(訓練していない)のに、いきなり実戦の1,000kmに挑むことが良くないな、と思いながら、次第に本調子になっていった。

時速110kmがこのGSと僕にとって最も気持ちがいい速度帯だった。ボクサーエンジンの振動と風圧や風切り音のどれもがちょうど良く混じりあい、無音無風に感じられるスポットらしい。両脇を開き気味に腕を上げて運転していると、こどもが飛行機の真似をして腕を拡げて旋回する仕草と全く同じ滑空体験になることは、多くのGS愛好家にとっては周知のことだろう。タイヤが路面のうねりを拾い、フロントのAアームとリアの片持ちシャフトがそれらをこなす仕事をしているのだろうが、運転している人にとっては、地上からほんの少し上を浮遊しているように感じられて仕方ない。120kmを超えるとエンジンの存在が強く、100kmだと風圧が邪魔に思える。

少し飽きた時に見下ろすとオレンジのタンクカバーが勇気づけてくれるようにも思える。山陽自動車道に入ると交通量は減った。時折20kmほどの渋滞エリアがあるが、大型バイクで旅をしている人たちは、空いた道路では140kmを超えて駆け抜けていた。

夜、照明がほとんどない山あいで下りカーブに入る時は、自分の身体とこの車体を信じきる気持ちが欠かせない。緊張は身体を固くして無用な動きを招き、あるいは必要なはずの動きを妨げて、不安定な状況になりかねない。だからライダーはいつも機械を整備して、自分の身体のコンディションを整えることが必要なのだと思った。

20:30に山口県防府に到着するまでの距離は790km、3回給油して平均燃費は22,2kmとなった。

クシタニと国道52号線

f:id:nobyas7:20140727105224j:plain新清水SAの「クシタニ」に行くと、ロング丈のメッシュジャケットが生産中止/Mサイズは残1着、ということで、購入してしまった。同社とは30年前にExprorerシリーズを買って以来の長いつきあいだった。当時のウェアは専用設計とはいえ、シルエットは寸胴で、凝ったディテールもなかったが、首もとと手首の調整や腰からの風の侵入を防ぐインナーベルトの仕組みがよく出来ていて、機能がそのまま形になった感があった。また当時のカタログは、製品の開発意図が書かれたコピーと情景写真が印象的で、僕はクシタニというブランドを信頼したことを覚えている。製品よりも体験の楽しさを大切にモノづくりをしているように感じた。

バブル前後は経営方針がぶれているのではないかと勝手に心配していたが、今もこうして残っていることは密かに嬉しい。

晴れた週末にGSの様子を見る、あるいは身体を慣らすためにいつもの52号線から下部温泉本栖湖へ登って精進湖で引き返し、農業道路をつなぎながら富士山西側を半周した。

2009年型の新エンジンは雑誌で解説された通り、発進時のトルクが心強く感じた。04年式で確かに数回エンストしたことがあったが、アクセル開度がわずかでも、ルルル、と爆発が前に進む力になって後輪を回し始める。ミッションのヘリカルギアの変更も分かりやすく、シフトショックがはるかに小さく(以前はガツン、とエンジンユニット全体が揺れるような場面があった)機械が不愉快に出しゃばらないように仕付けされている。雑味が減り、洗練された印象だった。前オーナーが付けていたR's ギアのスタンドハイトブラケットも、車体を引き起こすのに有り難かった。それでも、04年式と違うスタンド形状と、10mm高くなったシートは、停車時や取り回しの際に、次はこうして、と予測して動く必要が増えた。まだ、身体の慣らし運転が始まったばかり。

 

copyright Nobuo Yasutake