2013(猛暑)の奈良と京都

奈良ホテルに泊まりたい。妻と夏の車旅行に出た。450km、4時間30分のドライブは去年の能登や数年前の盛岡や直島に比べると近く感じた。淡々と距離を稼いで15時にチェックインした。車寄せに迎えにきたドアボーイもフロントスタッフもわきまえてる感じがあって、それはマニュアルではなく、自分自身の裁量で喋っているような、自然体の品を感じるからだろう。1909年創立の迎賓館という歴史があるということは、それぞれの時代でサービスが常にモダンということか。ホテルで受け取る快感の半分以上はこうしたスタッフのクオリティが生み出すと思う。自分たちが年齢を重ねるにつれ処遇もよくなるが、見る目も厳しくなっている。
夕方に少し荒池から浮見堂を歩いて退散して、ホテルのバーに向かう。冷えた空気と窓越しに五重塔が見えた。モヒートは摘んできたばかりのようにミントが利いている。妻もリラックスしてる。


陽が暮れるころ、猿沢池燈花会を見に行く。韓国のカップルに「ディアはどこに行けば居るの?」と真剣に聞かれた。すぐそこ。確かに市街地にわんさか鹿が歩いてる都会は他にない。ゴハンどうしようかな、といつものように妻がその辺の(というかバックパッカー宿の従業員)から美味しい店を聞き出して居酒屋「蔵」へ行くとぎゅうぎゅうだった。g大瓶のアサヒ、タコがちゃんと温かい。ならまちが好きになった。もう一度、興福寺まで歩いて帰った。
二日目は、国立奈良文化財研究所へ。展示を見ているとつくづく自分がこの国のことを知らないことに気づく。そもそも、いつ、どこで始まった国なのだろう、古墳時代飛鳥時代、という場所と人と出来事が結びつけにくい時代は、フィクションのような捉え方をしてしまっている。学生の時の東洋美術史は寝ていたけれど、今になって仏教が国の文化を創ってきたことに思い至った。
飛鳥寺に行った。着いてから二度目だと気づいたが、お堂を見学するのは初めて。和尚さんのお話を聞くと、ここが日本のお寺の始まりであり当時の勢力抗争の中で仏教導入が決まり、聖徳太子が建造に関わりながらAC600年に建造されたまま、仏像自体はこの場所から動いていないという。1,400年前の像を目の前にしていると、ミラノのドゥオモが1,400年から500年かけて建造されたことに感心していたことも色あせてくるような不思議な実感を得る。周辺の穏やかな低い山々と農地の光景は大きく変わっていないとしたら、今ここに暮らすとしたら日々、古代史の中で過ごすということか。自分だけかもしれないが、現代人がこの地域に敬意を払っているとは感じられないのはなぜなのだろう。
28年前に開業したという雑貨カフェ「くるみの木」へ行く。2013年の今ではふつうに感じるが、1980年代にこれを始められたそうだ。バブル期でポストモダンとか言っていたころなのに、きちんと生活を見ていた人なのだろう。
再びバーで落ち着いて、夕方から焼き鳥屋「おんどり」へ。昨夜は満席で入れずに開店同時に入る。これまた30年以上一人でやってるという吉三郎さんは「ならまちなんて空き家ばかりで犯罪がおきそうな位物騒だった」という。今は女子向けガイドブックでは「迷いたい、ならまち」に変貌。大阪の商売人たちが古民家カフェを続々成功させたからだという。でも本来の資産がある街はその力を取り戻しただけではないか?リメイクの作為が人を呼ぶのではなく、背景にある奈良、日本人のルーツに現代人たちは惹かれている。
五十二段、興福寺奈良国立博物館浮雲園地と燈花会のまっただ中を突っ切ってあるいて、薄暗い東大寺二月堂へ。夜の奈良の低い街並みを見下ろす中、修行が続いているらしい。いつも我々はこうした場所に来るようだ。


三日目。国立博物館で仏像展をしっかり観る。服装、形、色、持ちものと初心者向けの展示はよくできている。そもそも菩薩さまと如来さまのヒエラルキーを初めて知った。なぜキリスト教の物語りの方が分かりやすく感じるのか。仏教は慎ましやかな分だけ布教=広報=ブランド計画には不熱心だった(アフリカの奥まで聖職者を派遣して植民地化に繋げることが良いとは思えないが)
京都、大原の宿坊、浄蓮華院に宿泊し、翌朝、宝泉院寂光院を訪れた。建物や植え込みのしつらえ、案内のお話から伺える誇りや歴史などが愛おしく感じる。自分たちが年齢を重ねるにつれて、それらの価値が少しずつ見えてくるように思う。相対化できる情報の蓄えがあると、より本質に近づけるのだろう。
「イルギオットーネIL GHIOTTONE <イル ギオットーネ>」へ。5皿+コーヒー/3,990円のランチに惜しげもなく知恵と勇気を盛り込んでいることに感動した。挑戦する人が大好きなのだ。こんなお店を大切にする都会も大好き。写真右は宿坊の精進料理ww


copyright Nobuo Yasutake