MB5とXJ400

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GSまでのモーターバイク。

1980年、日本の戦後経済成長がバブルへに向かいはじめた頃に、HONDAのMB5が初めての相棒となった。50ccの2ストロークエンジンは7馬力に達し、X型バックボーンフレームという大柄なスタイリングと合わせて、前衛的な商品だった。独り乗りのロングシートとセパレートハンドル、赤いボディカラーなど専用設計のディテールが他の50ccとは全く違った。

しかし、羽音のような摩擦音を伴うエンジンと、時速60kmを超えたあたりからのハンドルに表れる振動は、下宿先と実家との100km弱の移動にとってストレスなのも事実だった。水色のオイルがサイレンサーから漏れてくるのも苦手なことに気がついた。自分は、商品のコンセプト、氏素性が正当であることが最優先だが、さらに機械にとしての完全さも求める性格だった。

ほどなく、赤いヤマハのXJ400を購入することができた。発売間もない納車で、慣らし運転で太宰府のバイパス入口を加速していくと、話題の車を見て喜んで手を振るタンデムライダーの笑顔と初めてピースサインを交わした、その夕暮れの山際の風景や夏の気温を今でも覚えている。

ヤマハで初めての空冷並列四気筒は2列のオーバヘッドカムシャフトの構造から45馬力を出した。1405mmという長いホイールベースが堂々としたツアラー的なプロポーションを生みだし、赤い車体色がいつも僕を勇気づけた。大学生だから文字通り朝昼晩,雨が降らない限り僕はこのモーターバイクと一緒にいた。下宿の窓外に駐車している時も、無人駅舎で野宿している時も、僕はこのモーターバイクのことばかり考えていた。ツインホーンのメッキは豪華すぎると思いながらも、離れて眺めるとそこも愛敬に見えた。XJは僕にモーターバイクが風景や季節を教えてくれることに気づかせた、大きな役割を果たした。一人で夜の福井の国道8号線を走りながら野宿の駅を探していると、心細さから、大学でうまくいかない人間関係も懐かしく感じ、生きているだけで充分だ、と勝手に納得したことも、一人で何もかもと向き合わなければならない、モーターバイクが教えてくれたことの大切な真理だった。

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copyright Nobuo Yasutake