ナミビアのオレンジ

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八王子のkモータースは青梅街道から一本北側にある。先代社長の影響だろう、スタッフも顧客も50代前後が多い。BMWのブランドやCIルールにおもねっていないような渋みがある。若社長と呼ばれているkさんも穏やかに応対して、その低いテンションに好感をもった。

タンザニアブルーと呼ばれる2008年式の個体が目当てだったが、ショップについた時には試乗中で気勢をそがれた。実は青が好きになるまでには自分なりに葛藤があった。ウェアとの愛称という物理的な理由もあるが、相棒としての愛おしさが生まれるかしっくりこなかった。最新のボルボのバケツのようなブルーは興味深かったし、気分を一新してオートバイと新しい付き合いをするには良いように感じた。

見積りをとり、試乗した。最後にオートバイに乗ってから10ヶ月がたっていたが、身体は儀式のように動くようで、何ごともなく発進した。200mm程で最初の信号待ち、落ち着こう、と思った。アイドリングは安定しているが、回転数はやや高い印象だ。何より2000回転ほどでハンドルに振動が伝わり、これはfモータースで整備していた2004年式にはなかった違和感だ。エンジンの回りかたがザラザラとした雑な感じがする。一方電子制御サスペンションは初期の沈み込みがふわっとやわらかく、舗装のうねりにも丁寧に、精密に動いている感触がある。ポルシェのボクスターのような、クリームみたいに滑らかな足回りを思い出した。この個体が僕の相棒だろうか、腑に落ちない感覚の兆しがあったのか、カメラを用意していたが写真を撮らずに帰った。

一週間後、オートローンの段取り後に電話すると、タンザニアブルーは商談中になってしまった、とKさんの済まなそうな返答だった。不思議に落胆はなかったが、そのまま、ナミビアオレンジの車体を値引きをするので、という提案に展開した。ESAはないが、9,000kmの走行距離は新車同然であり、それはタイヤをはじめ消耗度合いの少ないことにつながる。過去に整備のたびに部品交換の費用がかさんだのを思い出すと、合理的に感じた。この家には黄色が似合うように思うと言った妻の笑顔が、何より嬉しかった。

7月はじめの金曜日、ヘルメットとウェアを持って、横浜からJRで八王子まで行き、北口から15分程歩いた。夕方から雷雨がある予報が気になった。

初めて見た現車の美しさに驚いた。メーター奥の黒い樹脂の部品やエンジンの下半分など、屋根付の車庫に置かれたままのように傷みがない。ナミビアはアフリカ南西の国の名前だが、ソソスブレイという赤い砂漠があるという。BMWはそこから車体のオレンジの名前を借りたのだと思う。

走り出すと、記憶の中の青い車体よりもサスが固い。時速80kmほどでトンネルに入ると、いつものようにメーターの照明が点いた。八王子ICから圏央道に入り、開通したばかりの道で南へ向かい、厚木のジャンクションを目指した。追い越し車線で100kmへ加速する。少しずつ、エンジンの回り方が滑らかになってくるように感じる。右の手の平でじわりと押し出すようにアクセルを回すと、しなりがあるロッドで繋がってるように2つのクランク軸が回転を上げ、5kmほど速度が上がる。機械と自分とのつながりが過敏すぎもせず、だる過ぎもなく、ほんの少しのためを挟みながら関係している。これがBMWのオートバイが乗り手に与える信頼感や豊かさだ、と嬉しく思いだした。機械を設計する上でもコミュニケーションがもたらす満足があることを知っている人たちが丁寧に開発している。中でも2012年までの空油冷Rシリーズは水平対抗エンジンの大きなクランクとクラッチが同軸で車体の中心を貫いて回転していることから、乗り手は自分の両脚のくるぶしあたりに質量の塊を感じながら、ちょうど小型飛行機が両翼をバンクさせて方向を変えるように、滑空する感覚をもって地面の上を左右に移動していくことが楽しめる。

厚木から東名高速、御殿場から新東名で新清水ジャンクションを経て静岡市に着いた。こうして僕はもう一度、GSと一緒に旅をすることができるようになった。

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歩く

ただ歩きたいと思う。元来歩くのは好きな方で、旅先だと無意味に歩くことが多い。観光地ではなくて、ホテルの周辺や気になる路地など。ロンドンのパブリックフットパスや、独身の頃は東京を訳もなく歩いた。早朝に歩き出して、新宿から原宿を通って麻布まで、半日ほど歩いた。面白そうな坂道などを見つけては曲がるので一直線に進まない。それでも土地勘はあるほうで、太陽の角度や移動の記憶を頼りにしていてあまり困ったことは無い。(ローマでスペイン広場からホテルまで歩けると思ったら陽が暮れて心細かった。偶然にホテル正面にでたが、この時は朝にバスで出発したおかげで景色を覚えなかったからだろう)
冬空と枯れた木立を見ようと、県立美術館に車を止めて谷田、国吉田を歩いた。静岡市ではないような高台で、テラコッタのような塗り壁に濃いオレンジの木製のドアや、金属を曲げ加工した一点ものの表札、A4、5シリーズが停まっていてSECOMの赤いシールが目立つ一戸建てが並んでいる。急な坂をどんどん進むとやがて日本平に続く丘陵の茶畑にでる。幅30mほどの頑丈なプレファブリックの温室の中には1月の午後の陽を浴びて観葉植物が置物のように並んでいた。この街に僕は30年もいるのかと思うと実感がなさすぎて、不思議だった。
身体を使うと思考も動くし、広い景色を見ると気持ちのわだかまりも取れた。

須賀敦子さん

このところ、須賀敦子さんを読み直していると、以前は表層しか理解していなかったところが少し、違う見方ができるような気がしている。須賀さんは1950年代のミラノで32歳で結婚し、夫と真剣に家庭と仕事を作りながら生きた。わずか6年で夫を亡くした跡は、しばらくして日本に戻り、やがて上智大学で学究を楽しみながら、晩年ついに作家として脚光を浴びた。私は寂しく生きることを選んだ、と彼女は書いた。
僕は須賀さんのことを、知的な向上心に突き動かされる果敢な人物と捉えて尊敬していたが、複数の本から垣間見える彼女の姿は、貧しい暮らしの中でも小さな喜びを見つけて育んでいく、実に従順でやさしく、些細なことに気弱になる自分を奮い立たせながら生きる心持ちだった。また真摯にキリスト教に向き合い、信仰にそってより良く生きることを求め続けたことも見逃していた。
4、5回、ミラノを歩いたことがある。勝手がわかった雑貨店や細かいところまで覚えているナヴィオリ運河沿いの小道など、単なる旅行者の僕にとっても、ミラノは不思議に等身大の生活感を感じる街だと思う。あそこで暮らしたら、と少し想像できるような親近感がある。あの古い、オレンジ色の路面電車に須賀さんは乗って、多くの友人に囲まれながらも一人で暮らしていた。
自分の脚にぴったりと合う靴さえあれば、私はどこまでも歩いていけると思う。と書いた一文は、人生にとってその靴と出会うのがいかに重要かを示している。
僕は靴を見つけているのだろうか、と胸に問う。少なくとも去年までとは違う靴を、今、僕は履いている。

2014の奈良

年末からまた奈良に来た。東大寺で除夜の鐘をついてみたいと思った。30日の夜に入り、31日は朝から妻と歩く。実は年末に買った登山用の靴の慣らしを兼ねている。薬師寺唐招提寺垂仁天皇陵、平安京跡、宇奈多理座高御魂神社、法華寺、まで10km少々歩いて日が暮れた。
薬師寺では写経を申込んだ。般若信教のお経について解説文を読みながら内容を考えてみると、悟りを開くということは所行の全ては空でありながら、だからこそ尊くて、でも未来永劫の流れの中の一つということなのだろうと勝手に解釈してみる。何度も何度のお参りしていて、自分は神社でもお寺でもお墓参りでも、祈る内容を持たなかったことに気がついて、強く驚いた。
僕は自分の罪深さを恥じ、間違いを悔い、少しでも改める行いを誓うような謙虚で尊い気持ちを自らの内にもたないまま、傲慢な人間で過ごしてきたのではないか。僕は奈良の神々に感謝して、ささやかでも清い人生を作りたいと思った。

2013(猛暑)の奈良と京都

奈良ホテルに泊まりたい。妻と夏の車旅行に出た。450km、4時間30分のドライブは去年の能登や数年前の盛岡や直島に比べると近く感じた。淡々と距離を稼いで15時にチェックインした。車寄せに迎えにきたドアボーイもフロントスタッフもわきまえてる感じがあって、それはマニュアルではなく、自分自身の裁量で喋っているような、自然体の品を感じるからだろう。1909年創立の迎賓館という歴史があるということは、それぞれの時代でサービスが常にモダンということか。ホテルで受け取る快感の半分以上はこうしたスタッフのクオリティが生み出すと思う。自分たちが年齢を重ねるにつれ処遇もよくなるが、見る目も厳しくなっている。
夕方に少し荒池から浮見堂を歩いて退散して、ホテルのバーに向かう。冷えた空気と窓越しに五重塔が見えた。モヒートは摘んできたばかりのようにミントが利いている。妻もリラックスしてる。


陽が暮れるころ、猿沢池燈花会を見に行く。韓国のカップルに「ディアはどこに行けば居るの?」と真剣に聞かれた。すぐそこ。確かに市街地にわんさか鹿が歩いてる都会は他にない。ゴハンどうしようかな、といつものように妻がその辺の(というかバックパッカー宿の従業員)から美味しい店を聞き出して居酒屋「蔵」へ行くとぎゅうぎゅうだった。g大瓶のアサヒ、タコがちゃんと温かい。ならまちが好きになった。もう一度、興福寺まで歩いて帰った。
二日目は、国立奈良文化財研究所へ。展示を見ているとつくづく自分がこの国のことを知らないことに気づく。そもそも、いつ、どこで始まった国なのだろう、古墳時代飛鳥時代、という場所と人と出来事が結びつけにくい時代は、フィクションのような捉え方をしてしまっている。学生の時の東洋美術史は寝ていたけれど、今になって仏教が国の文化を創ってきたことに思い至った。
飛鳥寺に行った。着いてから二度目だと気づいたが、お堂を見学するのは初めて。和尚さんのお話を聞くと、ここが日本のお寺の始まりであり当時の勢力抗争の中で仏教導入が決まり、聖徳太子が建造に関わりながらAC600年に建造されたまま、仏像自体はこの場所から動いていないという。1,400年前の像を目の前にしていると、ミラノのドゥオモが1,400年から500年かけて建造されたことに感心していたことも色あせてくるような不思議な実感を得る。周辺の穏やかな低い山々と農地の光景は大きく変わっていないとしたら、今ここに暮らすとしたら日々、古代史の中で過ごすということか。自分だけかもしれないが、現代人がこの地域に敬意を払っているとは感じられないのはなぜなのだろう。
28年前に開業したという雑貨カフェ「くるみの木」へ行く。2013年の今ではふつうに感じるが、1980年代にこれを始められたそうだ。バブル期でポストモダンとか言っていたころなのに、きちんと生活を見ていた人なのだろう。
再びバーで落ち着いて、夕方から焼き鳥屋「おんどり」へ。昨夜は満席で入れずに開店同時に入る。これまた30年以上一人でやってるという吉三郎さんは「ならまちなんて空き家ばかりで犯罪がおきそうな位物騒だった」という。今は女子向けガイドブックでは「迷いたい、ならまち」に変貌。大阪の商売人たちが古民家カフェを続々成功させたからだという。でも本来の資産がある街はその力を取り戻しただけではないか?リメイクの作為が人を呼ぶのではなく、背景にある奈良、日本人のルーツに現代人たちは惹かれている。
五十二段、興福寺奈良国立博物館浮雲園地と燈花会のまっただ中を突っ切ってあるいて、薄暗い東大寺二月堂へ。夜の奈良の低い街並みを見下ろす中、修行が続いているらしい。いつも我々はこうした場所に来るようだ。


三日目。国立博物館で仏像展をしっかり観る。服装、形、色、持ちものと初心者向けの展示はよくできている。そもそも菩薩さまと如来さまのヒエラルキーを初めて知った。なぜキリスト教の物語りの方が分かりやすく感じるのか。仏教は慎ましやかな分だけ布教=広報=ブランド計画には不熱心だった(アフリカの奥まで聖職者を派遣して植民地化に繋げることが良いとは思えないが)
京都、大原の宿坊、浄蓮華院に宿泊し、翌朝、宝泉院寂光院を訪れた。建物や植え込みのしつらえ、案内のお話から伺える誇りや歴史などが愛おしく感じる。自分たちが年齢を重ねるにつれて、それらの価値が少しずつ見えてくるように思う。相対化できる情報の蓄えがあると、より本質に近づけるのだろう。
「イルギオットーネIL GHIOTTONE <イル ギオットーネ>」へ。5皿+コーヒー/3,990円のランチに惜しげもなく知恵と勇気を盛り込んでいることに感動した。挑戦する人が大好きなのだ。こんなお店を大切にする都会も大好き。写真右は宿坊の精進料理ww


ジョージタウン2

路線バスで郊外の避暑地へ行く。ジョージタウンはインフラが整備された近代都市だが20分もすると東南アジア特有の風景が見え隠れしてきて懐かしい。トタン拭きの食堂やスクーターの大群や原色シャツの若者たち。特に男性は何となく働いているのかどうか分からない。女性たちはいつも何か生産しているように見える。
ケーブルカーは大変なスピードで斜面を駆け上がる。中腹は中国の人たちの住まい。山頂は裕福なイギリス人が瀟洒な別荘を持っている。


(左)前夜はブルーマンション隣の食堂へw。毎晩熱気があっていいのだが、大音量のカラオケが深夜に及ぶ。僕は寝ちゃうのだが、ウチの奥さんは眠れない。でもこの女のこはすれていなくて上手だった。
(右)ケーブルカーの席取りは子どもに負ける。男の子は内気だが、お母さんが強い。


山頂にはヒンドゥー寺院が。ガミラス星人がたくさん。バスの車窓からのマンションはトルコのカイゼリ付近を思わせた。


食べることに関して奥さんの勘は異常に鋭い。どこからともなく現地情報を仕入れて精査して、店名を変えたこのカフェが怪しい、と行ってみると今回の旅で最高だった。作家の若夫婦二人とアルバイトで回してて、食事のメニューは手作りのニョッキやパスタが6品だけ。でもそこに作り手の誠意と技術が集約されていた。こってり、もっちり。ビールはジャムの瓶で。


(左)ジョージタウンのショップハウスは生活感がある分だけ美しい。みんな手入れしながら住んでいる。
(右)世界建築遺産なのにしっかり撮影しないままだったブルーマンション。帰国時にカメラをタクシーに忘れて騒ぎになるダメダメな僕でした。送ってくれたキムさんありがとう。SONY NEX-5は一人でペナン島から飛行機に乗って帰ってきました(汗)

ジョージタウン




孫文ペナン島に潜伏しながら中国革命を組織した。隠れ家は複数軒あり市内には影武者もいたとされる。公開された家はプラナカン様式で中庭の吹き抜けの奥に小さなお風呂とキッチンがある。小一時間勉強させてもらい、ぷらぷら歩きてスイスの女性が経営するカフェで休憩。プロフェッショナルの旅行業者だった彼女はジョージタウンの文化史跡の保護活動の意義を穏やかに語り、お勧めの観光スポットを教えてくれる。世界文化遺産のこの街はイギリスのコモンセンス、中国の家族主義、イスラムの戒律、インドの宗教観など、地球上でも屈指の背景を持った文化が交錯していることが急に実感として伝わってきた。モスクで礼拝帰りの人たちが通る路地に美味しいインドカレーの屋台があって、そこはヒンドゥー寺院の前庭だったりするからね。
ロンドンと間違うような白いビクトリア様式の銀行街から少し歩いてリトルインディアに入るとインド音楽がわんわん通りに満ちている。通り2本くらいなのに文字通り世界が違う。すごいな。
珍しく体調がすぐれず、港で客船を見て夕涼みして妻に心配をかける。大抵丈夫なのにおかしいな。それでも陽が沈むと元気が出て、バスを探して遠出して、スノッブなギャラリーカフェで洋風ご飯。
リトルインディアの動画はこちらW

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