シビックプライドは教育から

ブラタモリ「熊本」を観ていたら、新町、古町、高麗町と、記憶の中の風景がありありと蘇って、自分の中にその土地に愛着があるのがわかった。

洗馬橋のたもとにある文林堂も、高校3年の自分が受験用に木炭デッサンを初めて描きにいった時の室内の光や匂いと、身の置き所がないような孤独感を思い出す。懐かしいなぁ。

熊本城築城に至る、戦国から江戸の出来事の数々は、当時の人たちの知恵や勇気や、不安や葛藤を映し出す鏡のようなものだ。そうした先人の営みを、僕はとても愛おしく感じる。この街を共に作ってきた仲間みたいな感覚だ。この街で起こったことは自分ごとみたいだし、街と自分がぴったり隙間なく結びついているような帰属意識がある。

これは、シビックプライド、そのものだな。

思うに、テレビ番組は僕にとって、熊本を愛する気持ちを自覚させた、教育の役割を果たしたらしい。

つまり、市民の中に、その街を愛する気持ち=シビックプライドを育む重要な要素とは、街の歴史と人々の思いを受け継ぐ自覚を呼び起こすような「教育」ではないか。

 

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SONY α99とSIGMA 35mm

今さらα99を選んだ理由は、スチルとムービーの両方を隔たりなく使う計画だからだ。SONYが考えているらしい(2012年当時に考えていたらしい)のは、NIKONCANONのような趣味性が高い性格の「愛機」ではなく、空間をスキャンする最適な「メディア」ではないかと感じる。

便宜的に一眼レフカメラの形をとってはいるものの、本質的な姿は、人の眼に対して、レンズ越しにデジタル機器が捉えた空間データを提供する機械だ。トランスルーセントも液晶ビューファインダーも、そう思えば先行的な開発結果に思える。構造がカメラの系譜に捉われていない点に賛同する。

SIGMA 35mmは圧倒的と評価されている、エッジの切れ味に期待した。SONY用の機種が限られていると要因もあるが、単眼の準広角で自分が動く撮影の仕方を取り戻したいと思った。

撮影してみる。

自分では慣れているつもりでも、カメラを構える体の使い方に油断や怠慢があり、微妙な手振れが起きていることが、現像した後にわかる。

画角もまだ馴染みがない。肉眼でものを見るときに、35mmレンズで切り取るとどのように見えるのか、がまだ身についていないので、とっさに撮影に入れずに、もたついてしまう。

ミラーレスでの撮影は、背後の液晶に映る平面な絵を、平面のままPCに保存するような気持ちだったとすると、αのような大型カメラとSIGMAのレンズは、自分がその空間のどこに立ち、何を見るのか、という緊張感を強いられる。

少なくとも「何か撮ろう」という現場任せのスタイルでは自分が納得しないようだ。何を撮るかではなく、世界をどう見るか、という撮影者の姿勢が問われるメディアだし、そのためのスタイルは、テーマについて深く知ることから始まるように思う。α99は、予想以上に「気持ちに重い」表現メディアなのだ。

 

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空と木を見たい

2015年は母を見送る年になった。6月から週末ごとに熊本に滞在していたこともあって、GSはGARMINのzumo660とTURETECH製のマウントを手に入れて長距離に備えていたが、軒下のガレージから引き出しのは10月を過ぎてからだ。もっぱら清水ICから新富士ICまで移動して、富士市富士宮市、裾野や越前岳の近辺の林道を走って半日で帰ることを繰り返した。そんなつかの間の体験でも結構嬉しいもので、冬の低い太陽が作る杉木立の影絵が目に新鮮だったり、標高が上がるにつれて7℃、5℃と下がり続ける空気をウェアの腕に感じたりするだけで、気持ちはすっと広がるものだった。木の枝や空の色を見るだけでしみじみするということは、普段の仕事中心の暮らしに余裕がないのだろう。

GSは空気圧を整えただけで見違えるように調子がいい。コーナーの先を見ただけで車体は向きを変えていくような軽やかさがある。

ヘルメットをSHOEIのホーネットADVに変えたのも気軽さを上乗せしている。専門店のフィッティングサービスを受けて自分の横に広い頭の形にぴったりと合った内装を得たことと、ピンロックシールドの効果で曇らない視界が確保できていることで、気を使う要素がどんどん減って、外界と、機械と、自分の五感の3つが絡み合い、反応し合うことだけに気持ちが集中することができる。スキーで感じる自分と外界との一体感と同じであり、サーフィンなどの自然に向き合うスポーツに共通する快感があると思う。

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5月にR299号線の麦草峠を登ったのが最も長い距離になった

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富士山の新五合目に至る途中から分岐して、十里木のゴルフ場に抜ける県道が美しい

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富士宮近辺の農道、人も車もいない

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越前岳に向かう林道

少しでも続ける

秋から冬へ、春へと、少しの時間を見つけてはGSと一緒にいる時間を作った。10月は京都大学のデザインスクールが主催するグラフィックレコーディングのワークショップに参加するために、京都に一泊で往復した。京都駅南の市営の地下駐車場は24時間で1,400円という安価、大型のオートバイ専用スペースがあり、セキュリティも良いという評判で利用した。GSの傍らで着替えして、バイク用のスーツ一式はパニアケースに収まった。翌日午後に滋賀の成安造形大学に(11月に公開講座を予定していたので下見を兼ねて)お邪魔して、15時過ぎに滋賀を出て、19時には自宅に着いていた。往復700km弱だった。

12月を迎えて、GSはコクボモータースで2回目の車検だ。21日に預けて、引き取りは1月6日になった。前日に都内でワークショップに参加して一泊し、中央線で八王子に行くと小春日和だ。GSは空気圧が正常で、リーンが軽い。国道20号線をたどりながら標高を上げ、上野原、大月、と勝沼まで来て中央道に入った。中部横断自動車道のジャンクションを調べなかったのが災いして道を見失い、甲府昭和ICで降りて、また入りなおして東進することになった。ガソリンがなく、氷雨が降った。ナビを手放したことを後悔しながら52号にたどり着いた。

この日に懲りて、コミネの電熱グローブを購入した。大ぶりの充電式バッテリーを左右のグローブに内蔵して3段階でヒーティングするそれは、購入前に調べた前評判通りの効果を出して、指先の冷えが痛みになっていた状況は改善できた。グリップヒーターと組み合わせれば、高速道路での連続走行も苦にならない。ライダー生活30余年にして、小さいけれど画期的な進歩?。

週末ごとに2,3時間ずつ乗り続けた。菊川から御前崎まで、お茶畑を抜けるアップダウンは、3日間乗り続けたのが功を奏して、身体とGSの動きが随分と合ってきたように感じた。スポーツと同じで、毎日続けることが最大の成長なのだ。砂利道も走るようになり、車体重心の身体のバランスも少しづつわかってきた。舗装路では感じないタイヤのグリップの具合がわかるのが面白い。ただし、行き止まりで押してUターンする回数も増えた。

3月にヤフオクでZUMO 660を落札した。これでようやく、ナビ音声が聞こえるセットにできるはずだ。花粉症が終われば、東北か紀伊半島に旅をしたい。

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XZ400

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23歳のある夜に寮で目を覚ました瞬間に、XZに乗ろう、と決めた。マンガのような展開だが、その週末にはヤマハのショップに相談に行き、グレイの色も指定した。XZはGKの強い思い入れで生まれたとしか言いようがない造形で、側面から見ると45度のVツインのバンクを下の頂点にした斜めのラインが反復交錯する、未来建築のような冷たい合理性が魅力だった。一方、弁当箱と呼ばれたメーターナセルや文字盤のフォントの味気なさや、エイのように無表情なガソリンタンクの上面は、三次元としての彫刻美を獲得したとは言いがたい。それでも、テールランプ回りの面の取り方だけで、手元に置いて見ておきたいと思わせた。ヨーロピアンツアラーというカテゴリーは当時珍しく、HONDAのGL系以外は長続きしたモデルはないのではないか。XZも550ccが本来の姿であり、国内の免許制度に合わせた400ccモデルは穏やかな特性となった。

コーナー手前で200kgを超える車体を減速させると、細めの18インチの前後輪はパタリとバンクする。縦置きツインは横方向に倒すのは簡単だ。しかしそこから脱出加速を得ようとアクセルグリップを開くと、水冷エンジンはきちんと7,000回転位は回るものの、車体は置いていかれた。右手と気持ちの3mほど後から車体がやってくる。そのような乗り方をしなければ、つまり淡々と長い距離を走る分には、従順な性格だった。

意外に早く手放したのは、ダウンドラフトのキャブレターが何度ディーラーで修理しても適切な混合気をブレンドできず、時折ストールする癖が治らなかったからだった。信号から発信して右折、という瞬間にエンジンが止まる。当然、交差点の真ん中で転倒することになる、そんな経験が何度かあって、とうとうロングツーリングに出る機会がなかったXZには、今でも美しいと思う気持ちの奥に、ほんの少し悲しい記憶が残っている。

MB5とXJ400

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GSまでのモーターバイク。

1980年、日本の戦後経済成長がバブルへに向かいはじめた頃に、HONDAのMB5が初めての相棒となった。50ccの2ストロークエンジンは7馬力に達し、X型バックボーンフレームという大柄なスタイリングと合わせて、前衛的な商品だった。独り乗りのロングシートとセパレートハンドル、赤いボディカラーなど専用設計のディテールが他の50ccとは全く違った。

しかし、羽音のような摩擦音を伴うエンジンと、時速60kmを超えたあたりからのハンドルに表れる振動は、下宿先と実家との100km弱の移動にとってストレスなのも事実だった。水色のオイルがサイレンサーから漏れてくるのも苦手なことに気がついた。自分は、商品のコンセプト、氏素性が正当であることが最優先だが、さらに機械にとしての完全さも求める性格だった。

ほどなく、赤いヤマハのXJ400を購入することができた。発売間もない納車で、慣らし運転で太宰府のバイパス入口を加速していくと、話題の車を見て喜んで手を振るタンデムライダーの笑顔と初めてピースサインを交わした、その夕暮れの山際の風景や夏の気温を今でも覚えている。

ヤマハで初めての空冷並列四気筒は2列のオーバヘッドカムシャフトの構造から45馬力を出した。1405mmという長いホイールベースが堂々としたツアラー的なプロポーションを生みだし、赤い車体色がいつも僕を勇気づけた。大学生だから文字通り朝昼晩,雨が降らない限り僕はこのモーターバイクと一緒にいた。下宿の窓外に駐車している時も、無人駅舎で野宿している時も、僕はこのモーターバイクのことばかり考えていた。ツインホーンのメッキは豪華すぎると思いながらも、離れて眺めるとそこも愛敬に見えた。XJは僕にモーターバイクが風景や季節を教えてくれることに気づかせた、大きな役割を果たした。一人で夜の福井の国道8号線を走りながら野宿の駅を探していると、心細さから、大学でうまくいかない人間関係も懐かしく感じ、生きているだけで充分だ、と勝手に納得したことも、一人で何もかもと向き合わなければならない、モーターバイクが教えてくれたことの大切な真理だった。

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越前岳の展望台

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晴れ間が出た。午後から国道1号線を東へ走り、田子ノ浦で左折して富士吉原を通りぬけ、国道469号線をのぼった。長旅から帰って調子がとても良いように感じたのは、リアのダンパーのセッティングが自分好みになったことが大きいようだった。停車時には右手のインテグラルブレーキではなく、左でリアブレーキだけを使う方が2009年式の車体に合っていることも分かった。左脚で支え、発信する時に右脚に踏み替えると、安心感が増した。

今日はツインエンジンの音がよく聞こえた。片側580ccのピストンが水平左右に毎分3,000回の往復運動を繰りかえしている時の吸気、爆発、排気の繰り返しと、多くのギアが噛み合わさる機械音の複合だ。鼓動というほど人間らしい不規則な感触はないが、並列四気筒の連続音とはまったく違い、僕と対話しているような頼もしさはしっかり捉えられる。2,000回転代は機嫌のいい大型の肉食獣と一緒にいるようなゴロゴロとした振動が下半身を伝わってくるし、3,000を超えたあたりから、エンジンの回転と車体の挙動と自分の意思とがぴったり合わさった一体感が訪れる。

富士山の東山麓と愛鷹山の間を抜ける国道はいくつかの中速カーブを抜けるごとに針葉樹の林に囲まれて気温も5℃ほど下がった。十里木高原にある越前岳行きの登山道入口がお気に入りの場所だった。秋から次第にすすきに覆われる高原は、歩いて10分程の展望台から正面に富士山を臨むことができた。何度も通った道にオレンジのGSもやってきたことになった。

 

copyright Nobuo Yasutake